菅谷李径先生インタビュー


平成22年3月インタビューに答えて


1.どのようなことで日本春秋書芸院にかかわりをもたれたのですか?

じつは、私は文学で立ちたいとおもっていたの。書道というものをそれほど重大に考えていなかったの。字は上手であることはいいと思う。だけどわかるように書けば字はそれでいいじゃないかと、あまりにも書道というものに無関心だったように思う。私はそこまで考えないで、文学で立ちたいという気持ちの方が強かったの。
ところがそうはいかない。どんどん文学から遠ざかっていくようで何をしてもうまくいかなかった。

そんな時、ある奥さんが来て「八卦見にみてもらいなさいよ」って言うの。そんな八卦なんてあほらしい。そんなもの信じたことも無いからいやだと言ったけど、その人は強引に連れて行ったのよ。
その八卦見が「あんたは、文学で身を立てようとしてはりますな。文学はよろしい。ええ趣味やと思います。だけどそれでは、おまんまは食えませんからな」という。
「じゃなんでおまんまを?」
「そらまあ、あんたはお習字をやることですわ」
「お習字?」…私びっくり。
「書道でんがな」っていうのよね。
「わかってますか」っていわれて
「書くの…?」
「そうですがな」
「わたし、字へたですよ」
「いや、下手とか上手とかじゃない。あんたは書道をする人なんだ。そういう卦に出ています」っていうの。私、もうあほらしくなってね。連れて行ってくれた人に「もう帰りたい」と言うとね、「信じるも信じないも勝手だけど、私はあの人を信じてる。でも、あなたが信じないならもう一人世話するから、ついて来て」っていうの。今度は穏やかな男の人で、私の顔をみるなり「書道で一生おくる人でんな」 ゾーっとした。連れて行ってくれた人は、私に、ほんとは文学をやらせたかったの。ところが、みんな、書道書道という。
「そうですか。私は書道と言うものがあんまり好きでもないし、そんなことで一生過ごせるもんでしょうかね?」
「過ごすも過ごせないも、自分のやり方ひとつでしょうね。それで世の中に立っている人もあるんでね。文学やっていても食うや食わずの人もあるんだしね。同じことですよ。あなたの卦はそうでているんでね。信じようが信じまいが、まあどうぞ」と言われて帰ってきた。

私ものすごく悩んでいた。

その頃はね、全国を回って八卦を見る八卦見がいたの。あるときその人が職場に来たの。それで又行ったの。私の名前を書いてみせたらね、「うーん。書家でんな」って又同じことをいうの。「書道をやれ」ってね。

もういいわ。ああそうですかと言って帰ってきた。もうこれは忘れようと思った。

そのころ黄檗山の機関誌編集の手伝いをしてました。
ある日、みんなで集まってね。そのなかの日本画の先生が達磨の絵を書いたの。ここにみんなで寄書をしようということになって、男が五人。そこの和尚とそばにあった少年院の院長の松岡先生…。女が二人。私と元祇園の芸者をしていた嵐山の料亭のおかみさん。和尚が最初で、ずーと順番がまわってきた。お先にどうぞなんて料亭のおかみさんが言うもんだから、男の人もたいしたこともないしなんて思って私がさきに書いたの。みんな黙っているの。最後になって料亭のおかみさんが、夏だったから、絽の着物の袂を上げてね、墨をつけてね、姿勢を正してね、その人美人なのよ。着物はいいし、姿はいいし、書く様子がまたいいの。一同監視のもとに馴れた手付きで自分の名前をすらすらっと、それこそ水茎のあとも麗しく。皆一同がほーとうなったのよ。さすがですなあと皆がうなっているのよ。私は、なるほど上手いなとは思ったけど、何がさすがだと思ってその日はうちに帰ったの。

そしたら翌日、ゴメンなんていって人が来たから、誰が来たのかと思うと、そのとき一緒だった週刊誌を出している印刷会社の社長が来たのよ。
「きのうは、気の毒だったね」っていうから
「何が気の毒なの?」
「あんた、えらい恥かいて、気の毒だと思って」
「私何の恥かいたの?」
「えー自分で気ついていないのかいな」
「私何したかいな」
「あのへたな字、あの上手な人の側に、あの変な字書いて、自分で恥ずかしいと思わんのかいな」とおっしゃる。
その時は、そんなとは思っていないからね。なるほど料亭のおかみの字は立派なもんだって思うけど、男の人の字だってあんまり立派なものじゃないと思っているから
「松岡先生の字だって、変な字じゃないの。変な字書いとったね」と言ったら
「それ、それ、それだからあんたはだめだ」っていうんだな。
「松岡先生は、隷書の達人と言われている人なんだ。隷書で書いたんだ」
習ってみて初めて隷書って知った。隷書なんて知らなんだ。
料亭のおかみさんは好きで30年も書道をやっているんだって。
俳句も、ものすごい上手い人なんだって。あの字で俳句もすらすらっと書くんだって。
「まさかあんたがあれほど下手だと思わなかった」 次々言うのよ。
「私が確かな先生を紹介するから、悪いこと言わん。明日から習いにいけ」って言うのよ。
「そんなわけにいかないわよ」
「そんなら二三日待つから。習う気になったら電報を打ってよこせ。決心ついたって」 言えば自分が飛んでくるちゅうの。電話なんて家にない時代だからね。会社に公衆電話からかけるって言うたの。

いろいろ考えた。

あんなに言うてくれるのだし、八卦見は三人皆そう言うんだし、ひとつここらで人の言うことを聞いてみようかと、自分は書家になろうという気はないけれど字が上手で損をしたということは無いだろうとね。
文学の方でも何を書いたらいいのかわからん。何書いてもうまいこといかん。とっても困っていたときなの。
それで、電話をかけたの。そしたら、翌日ぱーと飛んできちゃうのよね。家から。
「行きましょう」
「どこへ行くの?」
「豊中に行きましょう」って。王堂先生って知らないから、入門するなんていわないでくれ、って言ったら
「ああ、わかった。わかった」って言ったのよ。
本部に行ってみると床の間を背に王堂先生が座っていて、眼光するどい。怖いなあ。いやあだなあ。こんな怖い先生。男ぶりはいいのだけれどなにしろ眼光が鋭い。
そしたら、そこにいた内野先生が「いらっしゃい。ここに座って名前書いてください。皆さんに書いてもらってます」って。こういう者を連れてくるからと言うてあるにちがいない。打合せが済んでいるのよ。名前を書いてる間に習字道具が一式揃って、これあなたのですって。
下手だから習いに来ると言うと「どんなに下手だか見せてもらいましょう」 王堂先生は、私の書いたものを見て「うん、うん。なるほど、なるほど」笑っているだけ。そしたら印刷会社の社長が「そんなら先生、私はこれで」って自分ひとり帰ってしまう。
それから、王堂先生と内野先生と三人で瑞輪寺の教室へ行ったの。

「今日から、新しい人がみえたから紹介しておく」

私もお習字の先生になろうとなんて、全く思っていない。
だいたい下手だし、ともかく王堂先生の所に行ったけど、いやでいやで。それから、半年以上くらいたったある日、たまたま本部の二階でけいこがあった時、鋏が要ったのに、その鋏がなかったの。それで人に借りたら、
「けいこに来る時は、なんでもひととおりは揃えておけ。よそに行ってあれ貸せこれ貸せというのはそれだけ、その事に実意のない証拠だ」と言われた。
考えてみるとそのとおりだったと思いますよ。
又ある時、王堂先生は仰った。
「なあ、菅谷さん。よう聞け。何ぼ嫌だと思ってもな、これをやっておけ。あんたはいつまで生きるか?わしはなあ、百まで生きるつもりだよ」って、あの先生。
「百まで生きような」って仰るから
「そら先生だけ生きてください。私そんなに生きません」
「そんなことを言わんと百まで生きろ。百までも生きるんだったら、なにかしとかんといかん。だからな、字というものは上手になって人を教えるようになったら、なんぼでもいけるもんだからな。だからやめるということだけは考えるな。なんぼ嫌でもとにかく続けろ」っておっしゃるの。
そして、長い一生になるとね、年取ってからでもやれるのはこれしかないとね。どっかへ出かけようにも、いけなくなる。手さえ動けば、頭さえしっかりしておれば、これを修行しておれば、これで人を指導していくということはできるんだ。だから一生大丈夫だから、そのつもりで、すぐ上手になれとはいわん、だけどやめるということだけは考えたらいかんとおっしゃるの。

それで今日になったの。

だから私は王堂先生にそれだけは感謝しているの。会社員も学校の先生も商売も…百になっても来てくれっていうのはどこにもないからね。
王堂先生のおっしゃるとおりになった。
だから先生は、なんとえらいこと、私の先の先まで見通しておおられたものかと思うのよ。

 

2.書道の先生になられたきっかけは? へ続く。