会長あいさつ

       日本春秋書芸院の求めるもの


  昭和七年、父西田王堂によって日本春秋書芸院の前身日本春秋書道院がおこされました。
  なぜ、父は『春秋』という名をつけたのか‥‥そのことについてお話しましょう。

  中国に孔子という儒者がいることを皆さんはご存じですね。
  その孔子の著した『魯』の国の歴史書に『春秋』といものがあります。この『春秋』という書物は、それまで著されてきた、出来事を年代ごとに並べる編年体の歴史書にとどまりません。歴史上の事実について、孔子という儒者の目をとおして、正邪の価値判断を行い、そのことを加筆しているのです。
  後に孟子は「孔子春秋を成して、乱臣賊子懼る(孔子が春秋を書いて以来、世の乱臣賊子は、みな、恐れおののいた)」と『春秋』を称えました。このように孔子は、『春秋』という書物を著すことで、世の中をよい方向にもっていくようにしたのです。このような著述態度を『春秋の筆法』といいます。

  日本春秋書芸院が、その名の中で春秋という言葉をつかっているのは、孔子の『春秋』『春秋の筆法』にならい、字を教えるということをとおして、書技の向上だけでなく、生徒の人格の陶冶、長所を引き出したいと考えているからです。
  このことだけを聞けば、皆さんは「字を書くことは、なんと難しい」と思われるでしょう。

  そんなに難しく考えなくてよいのです。

  落ち着いて筆を持つ日常のおけいこの時間、先生と生徒の人間関係、同じ教室で学ぶ仲間、そのようなことから集中心、忍耐の心が自然と生まれ育ってくるものです。もちろん、春秋で生徒を教える先生方は、この生徒をよい方向に導いていくのだという心構えをもっておられます。
  今後も、日本春秋書芸院という名のもとに、先生をはじめ春秋で学ぶ生徒の皆さんのひたむきな努力を、大いに期待します。


日本春秋書芸院総裁・日本春秋書芸院春秋会会長

                      西田 寿山

     (平成20年7月29日 インタビューによる聞き書き)






1925年(大正14年)
香川県三豊郡常盤村(現在観音寺市流岡町)で、父健男(雅号王堂)、母キクノの長男として生まれる。

1944年(昭和19年)
旧制大阪高校在学中、現役兵として、中部第23部隊に入営し、直ちに中国に渡った。復員したのは昭和21年夏。

1949年(昭和24年)

京都大学法学部卒業。

1965年(昭和40年)
勤めていた会社を退職、父の主宰する日本春秋書道院の下で書家として活動をすることにした。大阪の御堂会館(南御堂)に書道教室を開く。豊中市美術協会書部門の会員となる。これより豊中市展に毎年出品。

1980年(昭和55年)
独立歩兵第115大隊の慰霊碑を揮毫(碑は大阪府能勢町地黄にある)

1988年(平成元年)
豊中市展の書部門の審査委員となる。


1996年(平成8年)
豊中市美術協会書部門の常任委員となる。

1998年(平成10年)
父王堂の逝去により、日本春秋書芸院(昭和58年日本春秋書道院から改称)の総裁となる。

2008年(平成20年)
後輩にみちを譲るために、豊中市美術協会の常任委員、豊中市展の審査を辞任した。