春秋探訪 第1


実用書と芸術書




                     会長 西田 寿山



 
文字は言葉に代わる単なる記号として発足した。記号であるから、文字は約束通りに正しく書けていればその役目を果たしたことになり、文字の美醜は問題にならないはずである。しかし、人間には物を美化しようという表現本能があって、これが働いて文字を美しくしようという工夫がなされた。ここに書というものが生まれることになる。

 この書を大別すると、実用書と芸術書ということになる。実用書とは、手紙を書いたり帳簿をつけたり、のし袋の表書きをしたり、というように日常生活に役立つ書写のことである。これに対して芸術書とは、画仙紙や懐紙などに書いて、額や軸などに仕立て、これを観賞用に供するものである。従って、実用書は読みやすく、きれいでなければならない。そのためには、字形が整っていることが必要である。外形を把握したり、反り・間隔など線のバランスに注意したり、部分の組み合わせを考えたり、相譲相避の原則を重んじたりしなければならない。もちろん、字形の整頓だけでなく、筆勢なども必要であるが、ここでは触れないことにする。要するに実用書は、字形についての、既定の条件を忠実に守って、整斉な美しい字を書くようにしなければならない。

 では芸術書はどうであろう。まず表現意欲 ( 感興 ) が湧いて来る。次に技術を駆使して表現したい内容を紙の上に定着させる。そして、定着させられたもの、つまり作品からは、作者の人間性がにじみ出てくる。この人間性の表出が無ければ、芸術書にはならないのである。また芸術書においては、技術も多様である。字形のデホォルメ、字の大小・肥痩、運筆の緩急・抑揚、墨の濃淡・潤渇、全体に及ぶリズミカルな流動感などが考慮されなければならない。

 以上、実用書と芸術書について述べたが、その特徴を端的に言えば、前者は整然とした規律性であり、後者は変化・流動を通しての人間性である。

 ところで、実用書に習熟する者が、芸術書にも堪能であるとは限らない。多年にわたって身につけてきた規律性が逆効果になって、変化・流動への転換に充分には踏み切れないのである。芸術書を志向した作品が「日向水のような中途半端な書」と批評される所以である。一方、芸術書に堪能なものが、実用書にも巧妙であるとは必ずしも言えない。変化・流動を重んじる習性があだになって、結構整斉な字が書けないのである。私は、ある日展の大家が書いた小中学生用の習字手本を見たことがあるが、そこには書者の個性が過剰に出ており、字の結体が端正でなく、遒美さに欠けるものであった。

 しかしながら、昔に遡ると実用書と芸術書との区別は判然としていない。例えば、敦煌出土の木簡や竹札は実用以外の何物でもないが、それらは芸術書の分野に立派に入るものである。王羲之や空海の書も然りである。このように実用書と芸術書が渾然一体となっていたのである。

 現在、書に実用書と芸術書の区別があり、たずさわる書家も大体二分されている。しかし書を練磨する者は、困難ではあるが、実用書と芸術書の両方に熟達しなければならない。比田井天来も次のように言っている。「むかしの大家は、実用的にもまた芸術的にも書けたが、後世になるに従って、おいおいその技倆が下がってきて、一人で両方を兼ねるような人が少なくなってきた。しかし本来書家たる者は両方をうまくこなさなければならぬ」まことに至言というべきである。

           (平成7年4月会報 春秋第18号より)


 
            第2回は西田王堂「魚字雑感」の予定です。