「 千字文はしがき 」


小林まゆみ



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千字文はしがき

わが国にはじめて文字が伝わった年代ははっきりとはわからない。
古事記や日本書紀によると、漢字の伝来は、応神天皇の御世になっており、
それは大体四世紀末にあたるのである。

即ち天皇の十五年、百済から阿直岐が来朝した。
彼はよく漢学に通じていたので、皇子莵道稚郎子の先生として遇された。
その後、王仁の来朝によって論語と千字文が舶来する。

現行の千字文は、梁代の人、周興嗣の作であるから、
王仁献上の千字文とは異質のものであるる彼は帝命をうけて
一夕にして作りあげたというから、驚くべき奇才の持主であったと思う。
四言詩、二百五十句、千字中一字の重複もない。押韻して歌えるように出来ている。

その後、智永の千字文をはじめとして懐素の千金帖等法帖としての千字文は
和漢を通じて枚挙にいとまがない程、刊行された。
然し、書体はいずれも一二体もしくは三四体のものが多い。

私はかねがねいわゆる篆・隷・楷・行・草の五体に、古文的書体を加えて、
六体の千字文を編集してみたいと思ってきた。

幸い、内外呼応しての亀甲獣骨文字の研究が進み、
金石学の発達も手伝って、資料収集に厚みを加えていった。
思えば戦時中に稿を起こし、細い暗い道を歩み続けた。

昭和二十七年麦秋、私は思いきって上梓することにした。
あれから二十年、日本は経済的復興と共に、書もまた今日殷盛を極めている。

ものには、栄枯もあれば、また盛衰もある。
漢字が国字として生きつづける間、書もまた日本流の進展をみせるであろう。
千字文の歴史的価値は別として、大衆に対しての役割は今後もあまり変わりはあるまい。

中国人は書の技術を尊ぶ。日本人は技術よりも人格のあらわれとして書を尊重する。

書はあくまで人工的なものだから、技術の向上には鍛冶の効をつまねばならぬ。
書の究極は、人物に帰する。そこまで修業するには実に大変であるる。

ロダンは「独創はいらない。生命がいる。」といった。
小著がどれだけ世のお役に立ち得るか、内心忸怩たるものがあるが
以上、いささか所思をのべて改版の小序とする。